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足を洗う

2010 年 12 月 16 日

語源由来辞典によると、「足を洗う」ということは、

【意味】 悪事や悪業をやめ正業につく。堅気になる。

【足を洗うの語源・由来】 仏教から出た言葉。
裸足で修行に歩いた僧は寺に帰り、泥足を洗うことで俗界の煩悩を洗い清めて仏業に入ったことから、悪い行いをやめる意味で用いられるようになった。その意味が転じ、現代では悪業・正業に関係なく、職業をやめる意でも使われるようになった。
イエス・キリストは弟子の足を洗い、「互いに足を洗うことで、信頼関係を結びなさい」というメッセージを残したと言われ、これを語源とする説もあるが、意味も異なるため関連性は認められない。

ということだそうです。

私たちがやっている「足を洗う=足湯」とはまるで違いますね。
ここでいう「仏教から出た言葉」の出所はどこからでしょうか? 本当かしら.. :roll:
「裸足で修行に歩いた僧は寺に帰り、泥足を洗うことで俗界の煩悩を洗い清めて仏業に入った」というクダリが、ちょっと引っかかります。私たち僧侶は、みなさんからちょうだいした 「お恵み」 で生きているんですから、「俗界の煩悩」っていう表現は、驕慢にしか聞こえません。

衆生界を離れて法身があるのではなく、法身を離れて衆生界があるのでもない。衆生界は法身そのものであり、法身は衆生界そのもののはずです。だからこそ、私たちは足を洗っているのです。足湯は「仏足を頂礼する」仏道修行です。


ブラウンの「弟子の足を洗うキリスト」 (1851-56年、ロンドン、テート・ギャラリー)

ブラウンの「弟子の足を洗うキリスト」 (1851-56年、ロンドン、テート・ギャラリー)


それにつけても、Ford Madox作 Peter’s Feet (ペトロの足を洗うイエス) は、まことに清々しい名作です。まさにこれが 「足を洗う」 という行為そのものです。私たちの足湯もこのスタイルです。洋の東西を問わず、そのこころは一つです。

過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世に居る自分のものを愛されたイエスは、その愛を残る ところなく示された。夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父 が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 それから、たらいを水に入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」イエスは答えて言 われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いになら ないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足 だけでなく、手も頭も洗ってください。」イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいの ですが、みながそうではありません。」イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。   -  ヨハネ13:1~11節 -

名画で巡る清書の旅

 
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