そもそも、この物語のあらすじはこうです。
三井寺の僧智興(ちこう)が重病にかかったとき、その弟子証空(しょうくう)は師の身代わりになってその重病を引き受けましたが、証空の持仏堂の本尊不動画像は、証空の志をあわれみ、証空に代わって地獄の鬼に捕縛されて地獄へ引き立てられていった..

重要文化財 不動利益縁起絵巻(部分)東京国立博物館
智興は、ほぼ十世紀の人。鴨長明の『発心集』によると、「かの本尊は伝わりて、後白河院におわしましけり、常住院の泣不動と申すはこれなり、御目より涙を流したる形、げにさやかに見え給へけるとぞ」と記され、藤原時代末期には常住院の「泣不動」と呼ばれて、天下にその霊験がうたわれていたことがわかります。
証空の志を哀れみ、その身代わりとなった不動尊は目から涙を流し、地獄の使いの鬼に捕縛されて地獄へ引き立てられて行く様子は、古い時代の不動信仰では考え及ばない姿でした。『大日経』の説く不動尊の姿は、「威怒身猛炎、安住して盤石にあり」とあって、文字どおり動かざること泰山のごとく、また、不動尊が泣くがごとき心弱きは性格である奴隷性を、他のすべての性格に優先させたことから生まれた説話です。さとりをめざして修行しながら、他者救済のために骨身を削るという生きざまは真言行者の規範となる姿です。
不動尊には、
十九観に示されるあたかもインドの奴隷を彷彿とさせる姿が規定されていますが、一方では、大日如来の教令輪身として、五大明王の中尊に位置する高い地位を得ています。それが不動信仰の大衆化、世俗化によって、前者が後者に優越する結果となり、観音菩薩や地蔵菩薩の信仰によくある「身代わり信仰」が、不動信仰にも登場するようになりました。
不動尊がもつ密教独特の怪奇さとその呪術的性格に加えて、この強調された奴隷性、すなわち不動行者に対する献身的な護身仏的性格がなにより大きな魅力です。
不動利益縁起絵巻 1巻
南北朝時代・14世紀
東京国立博物館
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「泣不動縁起絵」、「証空絵詞」の名でも知られる。絵巻の前後に欠失があるが、およその話は次の通り。三井寺の僧・智興が病にかかり、弟子の証空が師に代わってその病を受ける決意をする。第一段の絵は証空がその決意を母に告げ、母が嘆き悲しむところ。第二段は智興の坊に病の彼と病魔がおり、つづいて阿部清明が祭壇を設けて病身身代わりの祈祷を行うところ。祭壇の前にはもののけたちがいる。第三段では病を受けた証空が、苦しみのなかで不動明王の画像に助けてくれることを祈ると、不動明王がその病を受け、証空の病は消える。不動明王は縛られて冥府に向かうが、冥王はそれを見てびっくり。不動明王は直ちに解放され、雲に乗って帰還する。このあとは第四段の詞のみが残り、病の癒えた証空が母と再会し喜ぶことが書かれている。
中世に流行した説話らしく、いくつかの作品が残されているが、本巻はなかでも建物などのしっかりとした線、風景や霞などののびのびとしていまだ形式化していない筆致などが、鎌倉時代末期にさかのぼるもので、美術的にも貴重な絵巻の一本といえる。
e国宝
与えられた仕事を一生懸命なしとげることが、そのまま仏道修行に通じると説いた仏教者がいます。鈴木正三 (1579 – 1655) その人です。
三河武士であった正三は、常に生死について考えてきたようで、42歳で出家してからも、より在家の人々に近い立場で仏教を思索し、特定の宗派に拘らず、念仏などの教日々の職業生活の中での信仰実践を説いたといわれています。
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青不動尊を観想するために、19のパートからなるイメージ冥想法が伝えられています。
弘法大師撰 『カン十九種相観想略頌文』 がその一つです。その三昧の境をかきとどめた絵画も伝存しています。
そのイメージは、おおむね次のとおりです。
- 大日如来の化身
- ア・ロ・カン・マン
- 火生三昧
- 童子形
- 頭頂に七沙髻
- 左に一弁髪
- 額に水波しわ
- 左の目を閉じ、右の目を開く
- 下の歯で右上の唇をかみ、左下の唇の外に出す
- 口を固く閉じる
- 右手に剣をとる
- 左手に羂索を持つ
- 行者の残りものを食べる
- 大盤石の上に安坐する (あるいは、立つか)
- カラダの色は青黒い
- 奮迅して忿怒形
- 光背にはカルラ炎
- クリカ龍が剣にまとわりつく
- 二童子が侍す
これらをもとに図絵されたものが、あの有名な「青不動尊」(国宝・京都青蓮院)です。
20年前、京都国立博物館で青不動を拝観し、その顔貌をデッサンして帰ったことがあります。その際、自分が転写した面貌からは怒りというより、むしろ腹の底からにじみ出るような、何か深いあわれみのようなものの存在に氣づき、身震いしたことを思い出します。

不動明王二童子像 瑠璃寺蔵 重文
先日、佐用町の瑠璃寺さんをおまいりさせていただいたおり、ふと、この山にも「青不動尊」がいらっしゃったことに氣づきました。湿気の多い山寺では仏画の管理がむつかしく、恐らくは博物館に保存を寄託しておられるはずです。平安末?鎌倉初期の「青不動尊」の作例で、薄いオレンジと朱色の火焰光が印象的な名作です。ここに来させていただくまで、スッカリ忘れていました。
もし、「青不動尊」を薄暗い本堂に奉祀し、そのまま護摩供を修すれば、やがて護摩供の火焰に本尊が照し出され、バックの火焰光と呼応し、その面貌の細部までクッキリと浮かび上がることでしょう。まさに、行者冥利に尽きる、至福の一瞬です。
能登半島地震では、駆けつけたお寺で、床に落ちてバラバラになった「青不動尊」が私を出迎えてくれました。その時の衝撃が、災害ボランティアを始めるキッカケになりました。
ここでもまた、「青不動尊」のお導きをいただいたようです。
さて、今度の使命は、何だろうか…
京都青蓮院の青不動、高野山明王院の赤不動とともに高名な滋賀県園城寺(三井寺)の黄不動は、承和5年(838)当時25歳であった智証大師円珍が、洞窟内で坐禅中に虚空に現れた金色の不動明王を画工に描かせたと伝えられています。その根本像が、今なお秘仏として厳重に護持されています。
その根本像をベースに、平安時代後期以降、天台系寺院を中心に黄不動尊の転写が盛んに行われ、遺品が多く伝えられています。その中でも、最も古いのが、京都曼殊院が所蔵する尊像(国宝・平安時代 168.2cm×80.3cm)です。不動画の名品です!
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